大判例

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神戸地方裁判所 昭和48年(ワ)691号 判決 1974年6月26日

原告 近森紀子

原告 近森泰子

右法定代理人親権者母 近森紀子

原告ら訴訟代理人弁護士 植木幹夫

同 植木寿子

被告 近森周二

同 近森栄

被告ら訴訟代理人弁護士 小野正章

主文

原告らの請求を棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

一  原告ら訴訟代理人は「被告らは原告らに対し別紙目録記載の建物(本件建物)を明渡し、かつ昭和四七年一〇月九日から右建物明渡の済むまで月二〇、〇〇〇円の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする」との判決および仮執行の宣言を求め、その請求原因等として次のとおり述べた。

(一)  昭和四四年一二月一〇日近森寿樹は、自己の結婚生活の本拠とする目的で、神戸市住宅供給公社から本件建物を買受け、昭和四五年三月二三日所有権移転登記手続を了し、遅くとも同年六月一日以降本件建物を占有していた。

(二)  昭和四六年三月二九日寿樹は原告紀子と婚姻し、昭和四七年一月二七日原告泰子は右両名間の嫡出子として出生し、いずれも寿樹と共に本件建物に居住していた。すなわち当時本件建物の占有権は寿樹に帰属し、原告らは寿樹の占有補助者であったわけである。ところが昭和四七年四月二〇日寿樹は死亡し、原告らが本件建物についての寿樹の占有権を相続により承継した。

(三)  昭和四七年一〇月七日寿樹の父母である被告らは、原告紀子に対し電話で本件建物に居住する旨の意思を通告して来たので、原告らは、これを強く拒否したが被告らの応ずるところとならなかったので、紛争の発生を防止するため止むなく本件建物に施錠したうえ原告紀子の実家である当事者欄掲記の肩書住所に身を寄せた。しかるに翌八日被告らは、合鍵で解錠して本件建物に入居し、原告らの占有を侵奪した。

(四)  仮に右入居が原告らの占有の侵奪にならないとしても、その後被告らは本件建物の錠を取替えて原告らの所持する鍵では解錠できないようにした。このことによって原告らの占有を侵奪した。

(五)  よって原告らは被告らに対し占有権に基き本件建物の明渡および占有侵奪の日の翌日から明渡の済むまで月二〇、〇〇〇円の割合による損害金の支払を求める。

(六)  寿樹と原告紀子の婚姻以後、被告らによる本件占有侵奪に至るまで、被告らが本件建物に居住していた事実はない。仮に居住していたとしても、右は占有権者である寿樹またはその相続人である原告らの占有補助者であったに過ぎない。

二  被告ら訴訟代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁等として、次のとおり述べた。

(一)  原告ら主張事実(一)のうち近森寿樹が自己の結婚生活の本拠として本件建物を買受け、単独でその占有を開始したとの点は否認する。被告周二は戦災のため、その住所であった大阪を離れ、滋賀県犬上郡多賀町所在の父野村周太郎所有の建物(滋賀の家)に居住していたが、昭和二五年七月周太郎が死亡し、長男野村重内らが相続により右建物を取得し、被告らは右重内らに対し昭和三五年頃までに右建物を明渡すこととなった。そこで被告らの長男寿樹が神戸市の増見工務店に就職し会社の寮に入るのと同時に、被告栄も来阪し、昭和四〇年には尼崎にマンションを借り、被告栄が滋賀の家から娘二人を呼寄せ同所で生活していた。ところでその譲受人資格が神戸市在住者に限られている同市住宅供給公社のマンションの分譲があり、有資格者である寿樹が申込んだところ当せんしたので、被告周二は寿樹らと相談のうえ、被告周二の老後の生活の場所として寿樹名義で本件建物を買受けたのであり、昭和四四年一二月完成と同時に被告栄らは尼崎のマンションを引払って本件建物に入居し、寿樹もまた、結婚して別に新居を構えるまで当座の間本件建物に同居することとなった。そうして本件建物の鍵は、被告周二、同栄および寿樹が一個ずつ保管していた。すなわち、本件建物は、当初から右三名が共同して占有していたわけである。

(二)  同(二)のうち、寿樹と原告紀子が原告ら主張の日に婚姻し、原告泰子が原告ら主張の日に寿樹と原告紀子の嫡出子として出生し、いずれも本件建物に居住していたこと、原告ら主張の日に寿樹が死亡したことは認める。被告らは、寿樹と原告紀子の婚姻に伴い、同原告の同居をも容認したに過ぎない。

(三)  同(三)のうち被告らが、寿樹の父母であること、昭和四七年一〇月七日原告紀子に対し連絡のうえ、翌八日本件建物の錠を手持ちの鍵で解錠して入居したことは認める。右は被告らが寿樹の葬儀等のため滋賀の家に三ヵ月程赴いていた後、本件建物に帰来したに止まり、原告らの占有を侵奪したものではない。原告紀子は、被告らとの話合いを避けるため、施錠のうえ立去ったものであり、被告らの入居を黙認していた。

(四)  同(四)のうち被告らが本件建物の錠を取替えたことは認める。右は、もとの錠が破損したため交換したに過ぎず、原告らの占有を侵奪したわけではない。

三  ≪立証省略≫

理由

≪証拠省略≫を綜合すると、次の事実を認めることができる。

亡近森寿樹を基準として、原告紀子は妻、同泰子は子、被告周二は父、同栄は母(寿樹は右両名の長男)、古川節子は妹である。本件建物(和室六帖、四帖半、洋室六帖、ダイニングキチン、浴室、玄関、便所)は、昭和四四年一二月一〇日神戸市住宅供給公社から、代金三一八万余円で寿樹名義で買受けたものであり、頭金一一三万余円中九〇万円は、寿樹が勤務先である株式会社増見工務店から借受けて準備したものであって、頭金を除くその余の売買代金二〇五万円は長期割賦弁済の約定であった。買受後直ちに、当時尼崎のマンションに居住していた被告栄および節子が本件建物に入居し、ついで当時増見工務店の二階に居住していた寿樹が本件建物に入居し、かつ同人は昭和四五年一月一〇日自己の住民登録を増見方から本件建物に移した。表札は寿樹名義のものを掲げた。同年三月二三日寿樹名義に本件建物の所有権取得登記手続を了した。同年四月節子は本件建物を出て古川に嫁いだ。同年五月原告紀子は寿樹と見合いをした。被告両名およびその子女は、昭和二〇年六月一九日以来滋賀県犬上郡多賀町大字中川原四九番地所在の建物(滋賀の家)を生活の本拠として来たのであって、被告周二の住民登録は現在なおそこに、被告栄の住民登録は昭和四八年五月一五日本件建物に移すまではそこに、登録されており、または登録されてあったのであるが、昭和四五年六月被告栄は、滋賀の家に里帰りした節子夫妻を案内中右大腿骨頸部骨折の傷害を負い、同月六日から同年一〇月一一日まで彦根市立病院に入院した。そうして退院後、養生のため、温かくて便利な本件建物に再び戻った。昭和四六年三月二日原告紀子と寿樹は挙式し、同月二九日入籍し、同日原告紀子の住民登録を本件建物に移した。被告栄は、原告紀子および寿樹の婚姻に伴い、本件建物から退去し、尼崎のマンションから持って来ていた古い家具は、応接セットを除いて搬出ないし処分した。原告紀子と寿樹の結婚後は、本件建物は右両名の生活の本拠として使用されていたのであるが、被告栄は昭和四六年七月に約二週間本件建物に滞在し、また同年一一月に約一〇日間滞在し、更に同年末から昭和四七年二月二〇日まで滞在した。被告周二は、昭和四六年五月頃に三日程滞在し、昭和四七年一月三日に一泊した。同月二七日原告泰子が出生した。原告紀子は里に帰って泰子を出産したのであったが、同人は、それ以外にもしばしば里に帰った。同年三月二九日寿樹は発病した。当初盲腸炎の診断であったが、実は腸閉塞であった。原告紀子は、当初の診断が軽かったのと、被告栄がやって来て居坐っては困るという考えから寿樹の病気を滋賀の家に居る被告らに知らせなかった。このことが原告紀子と被告らの間に不和を生む最大の原因となった。寿樹の病気は、芦屋にいる被告栄の姉から滋賀の被告らに伝えられ、被告栄は同月三〇日、被告周二は同年四月二日か三日に本件建物に来た。そうして原告紀子および被告らは協力して寿樹の看護に当ったが、病状は好転することなく、同月二〇日寿樹は死亡した。寿樹の四九日が済んで同年六月末被告周二は滋賀の家に帰った。被告栄も同年七月末滋賀に帰った。同年一〇月七日被告らから原告紀子に明日本件建物に帰るとの電話連絡があった。原告紀子は被告栄に「生活が出来ないから来て貰っては困る」と返事をした。しかし被告栄は「話合いたいから行く」と主張した。翌一〇月八日原告紀子は本件建物に施錠して実家に帰った。同原告は、被告らが合鍵を持っていることは承知しており、合鍵を使って入るかも知れないとは考えたが、留守なら入りにくいだろうと思った。被告らは合鍵を使って本件建物に入り、原告紀子の実家に電話して、今帰ったと告げた。約三週間して原告紀子は本件建物に行き鍵で扉を開けて入り衣類を取って帰った。家の中には被告栄が居た。同年末にも原告紀子は本件建物に行き鍵で扉を開けて入り衣類を取って帰った。家の中には被告両名が居た。昭和四八年五月頃原告紀子は本件建物に行き鍵を鍵穴に入れようとしたところ入らないのでベルを押したところ被告栄が出て来て家に入れて呉れたが、「錠を替えた。新しい鍵は渡せない」と述べた。しかしその後も原告紀子が行けば、家の中に入れて呉れる。錠を替える以前の鍵は三個あり、当初寿樹、被告周二、同栄が各一個ずつ所持していた。寿樹と原告紀子が結婚した後は、被告周二の分が原告紀子に渡された。寿樹が死亡した後は、寿樹の分を被告周二が所持している。右のとおり認めることができる(もっとも、右のうちの一部は当事者間に争いがない)。≪証拠判断省略≫

してみると近森寿樹が本件建物につき占有権を有していたこと、原告らが寿樹の死亡に伴い右占有権を相続により承継したことが明らかであるが、昭和四七年一〇月八日の原告らの本件建物からの退去と被告らの本件建物への入居は、前示の事実関係からすれば、原告泰子の法定代理人兼本人である原告紀子の、不本意ながらの了承の下になされたものというべく、これをもって占有の侵奪と評価することはできない。そうして少くともこの時以降本件建物につき、原告らの、家財、衣類等を建物内部に置くこと等によって保持する占有と、被告らの、本件建物に住むことによって保持する占有とが競合しつつ併存することとなったものというべきである。そうして被告らの右占有も、占有権によって保護さるべきことはいうをまたないから、昭和四八年五月頃被告らがした錠のつけ替え、新しい鍵の原告紀子への交付の拒絶も、前示のとおり同原告が年に数回本件建物に来る際に、被告らが本件建物の内部に居て原告紀子がベルを押せば入れて貰えるのに、ベルを押すこともなく敢えて鍵で扉を開けて入ろうとする、いささか高飛車で無分別な原告紀子の態度に対抗して、被告らの生活の安全やプライバシーを保全する(それは建物を生活の場所として占有する場合の占有権の一内容をなすと考えられるのであるが)ためには、止むを得ない措置であったものというべく、これまた本件建物に対する原告らの占有を侵奪したと評価するわけにはいかない。もっとも、いうまでもなく当裁判所は、被告らの本件建物の占有が本権に裏づけられた占有であると判断しているわけではない。それは別途、本権に関する訴訟において解決されるべき事柄であろう。

以上のとおりであって、占有の侵奪を原因とする原告らの本訴請求は失当というのほかないからこれを棄却することとし、民訴法八九条、九三条に則り主文のとおり判決する。

(裁判官 乾達彦)

<以下省略>

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